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わが家系を語る


鎮西八郎源為朝の末裔 ― 大島家


武蔵国の土豪・名主として戦国以来の連綿たる歴史をもつ伊豆大島配流時代の源為朝の裔

大島敬治(行政書士)

北条家臣の時代

 大島家の祖は、伊豆の土豪で本国伊豆を領して伊豆大島に住し、永正・大永の頃(1504~27)小田原北条氏に属し、北条早雲(伊勢長氏)及びその子氏網に仕えて武蔵国鴻巣(こうのす)領宮内村に鴻巣七騎として土着した。名は大嶌土佐守源善久およびその一族土佐守二男與四郎隆次、三男小四郎重富および大嶋大膳亮久家と名乗っていた。二男與四郎隆次、三男小四郎重富ものちに北条家臣となり、二男は大嶋大炊介隆次、三男は大嶋大膳亮重富と名乗った。

武蔵三の宮と呼ばれた宮内氷川神社  この事については、宮内村(現在の埼玉県北本市宮内)氷川社および弁天様に証左があり、祖先より大嶋家祖の氏神とされて弁天様のお堀内にある石碑には、與四郎隆次(大炊介隆次)と小四郎重富(大膳亮重富)が兄弟である事実が、はっきりと刻まれている。 また弁天様のある宮内氷川神社には、祖が宮内村に土着した二家の兄弟の印として、氷川社を氏神として祀るために植樹したと口伝されている大杉があった(昭和40年代、伐り倒された)。その大杉は、大人4、5人で抱えられるほどのもので、伐り倒した当時、切口の柾目(まさめ)により永正・大永年間頃と一致したという。 この氷川社は今はあまり呼ばれなくなったが、昔は武蔵三の宮と呼ばれ、名声も高く縁日には学校の授業も休みとなり、多くの参拝者で賑わったもので、現在でも年輩の方なら武蔵三の宮である事を知っている。 
 武蔵三の宮と呼ばれた
宮内氷川神社
(埼玉県北本市宮内)

 のち大嶋家は、岩付(槻)太田氏家臣としても仕え、太田資正・氏資・氏房の三代にわたり岩付城落城まで仕えた。以後内藤家の知行分を大嶋氏が代々里正(名主)として務める事となる。

 宮内村は戦国期に見える郷村名で、足立群鴻巣郷のうち初見は永禄8年卯月吉日の河目資好判物で、大嶋大炊介が当村拾貫五百文宛行われている。ついで天正5年3月21日の太田助次郎判物では「鴻巣宮内百姓中」に対し、当地の開発を命じ、5年間を無税と定めている。

 天正18年6月1日、豊臣秀吉の武将浅野長吉(長政)は岩付城を攻略するとともに近在の郷村の退転を禁じ、当地周辺の土豪大嶋大炊助以下5人をもとの村々に帰住するように命じている。大嶋家は古文書や、弁天様に記されている舊遺碑を郷土史家や専門家に解読してもらった事があり、古文書については北本市有形文化財指定を昭和55年3月15日に受けている。また埼玉県立文書館主催の「岩付城主太田氏文書展」にも指定宅として出展し、戦国時代の岩付太田氏と後北条氏との関係に迫る事ができた。

 舊遺碑については、その昔より大嶋家の氏神として祀られており、その昔より大嶋家系に関する事実や、中世当時の宮内に関する文字が刻まれている。その中に「大嶌土佐守源善久二子與四郎隆次、小四郎重富」とあるのは家の名乗りであり、伊豆大島での四郎家から出生したと語り伝えられてきた。

鎮西八郎為朝の後裔

 鎮西八郎為朝といえば、だれ知らぬ人もない歴史上の超有名人だが、わが先祖は為朝から出たと伝えられているのである。保元(ほうげん)の乱(1156年)で父為義や藤原頼長らの宗徳上皇方について戦ったが敗れて、父や兄弟たちは首を刎ねられたが、為朝は捕らえられて伊豆の大島に配流となった。天下無双の弓取にして智勇仁の三徳をそなえた為朝は、たちまちのうちに大島を平定し、島民のために善政をしいたほか、伊豆の島々を巡察して大勢の者から慕われ、中には生涯の献身を誓う者も現れたという事である。

 為朝は、伊豆大島の代官三郎大夫忠重の娘・簓江(さざらえ)を妻とし、三年のうちに三人の子をもうけた。長男は為頼、二男は為家、末は女の子で嶋君と名づけられた。為頼は為朝の子としては男子三番目で大嶋三郎、為家は男子四番目で大嶋四郎と呼ばれた。また為家は、大島での出生のみでは二男であったため、大嶋二郎とも呼ばれたという。『姓氏家系辞書』(太田亮著)の伊豆大島氏の項を参照して頂いてもお分かりのように、清和源氏為朝流と書かれており、子々孫々後裔も、伊豆大島を氏としたとされている。大島家の家紋に勢威を揮って太宰府に居城を構えていたゆかりの紋と見られている。 古くから大島家家系に伝わる当時の有形の物的証拠として、馬の鞍の両わきに垂れた足を踏み掛ける馬具であった鐙(あぶみ)が今でも保存されている。この鐙は、小田原北条家臣となって本国伊豆大島より武蔵国鴻巣領宮内村に永正・大永年間(1504~27)に鴻巣七騎として大嶌土佐守源善久およびその一族、土佐守の二子二男與四郎隆次、三男小四郎重富および大嶋大膳亮久家が、馬に乗って土着した時のものである。長い年月保存されてきたが、時には古物商にでも出してしまおうかと考えた事も再三あったと聞いている。

宮内氷川神社境内の舊遺碑

宮内氷川神社境内の舊遺碑
 また他にも徳川家康が将軍になる前の事で、大嶋大炊介が岩付太田氏の家臣であった当時、徳川家康が当地(現在の北本市宮内)に鷹狩りに来た時、当村の領主であった大嶋大炊介隆次(與四郎隆次)宅に立ち寄り、お茶等の接待に預かり、世話になったお礼として家康より与えられたとされる貝に柄の付いてできた杓子のような物があり、柄には徳川家の紋所葵が入っている。後の将軍からの戴きものであるため大切に保存してきた。舊遺碑や、鐙、家康から戴いたとされる先の貝の杓子等、長く保護するためにも、今後は北本市および埼玉県に有形文化財保護をお願いする方向で考えている。  家康より与えられたとされている貝の柄の付いてできた杓子

家康より与えられたとされている貝の柄の付いてできた杓子
北本市有形文化財指定
(大島隆三氏所蔵)

郷内開発を命じた太田資正判物
郷内開発を命じた太田資正判物
北本市有形文化財指定
(大島隆三氏所蔵)
 永禄2年己末3月24日には、岩付城主太田資正より、岩付太田氏の家臣で在地土豪の大嶋大炊介は、郷代官深井氏と相談し郷内(北本市宮内)を開発するよう命じられている。(「太田資正判物」大島隆三氏所蔵)ほか、その後も度々の勲功があり三代目小田原北条氏家より、永禄7年(1565)には、甲子の感状を賜り、そのほか鎗二筋を賜りたるの伝えもある。槍については、昭和の始め頃まで、大切に保存されていたが、今は行方がわからなくなってしまった。

 大嶋大炊介および大膳亮兄弟は、河目越前守資為や越前守資好にも仕え、永禄7年3月24日には、越前守資為より別之村拾う貫文、永禄8年乙丑卯月吉日には、河目越前守資好より宮内村拾貫五百文を賜っている。

岩村城落城後鴻巣近在地侍層に帰農を命じた浅野長政証状
岩付城落城後鴻巣近在地侍層に帰農を命じた浅野長政証状
北本市有形文化財指定
(大島隆三氏所蔵)
 また天正年中小田原城陥り、氏政が自殺し、氏直・氏規・氏房・氏邦等高野山に逃げ込み、大嶋大炊介・同大膳亮・矢部新右衛門・同兵部・小川図書等当地周辺の土豪五人は、豊臣秀吉の岩付城攻めの中心人物のひとりである浅野長吉(長政)から落城後10日も経たない時期に、もとの村々(宮内村、山中村、下谷村)に帰住するよう命じられていることが、天正18年6月1日付の書状に残っている(「浅野長吉証状」大島隆三氏所蔵)。

 また鴻巣の勝願寺には大嶋與四郎隆次宛に、杉苗を沢山戴いた10月5日付のお礼の手紙文が古文書として保存されており、当時勝願寺ともかかわりがあった事が窺える(「勝願寺文書」大島隆三氏所蔵)
 
江戸時代から今日まで

 以後代々旗本内藤家の知行地を大嶋氏が里正(名主)として務めることとなる。大嶋家の家紋は前に述べたように梅鉢紋で、天神様を意味し、天満宮の神紋と同じである。室町時代は武家の起請文に捺印され、その霊験はあらたかで、すこぶる権威を示していた。この紋を用いた戦国時代の人に加賀百万石大名となった前田利家がいる。
 宮内村大嶋家は、足立郡宮内村の領主であり、岩付城落城後より江戸の末期まで代々名主を務め、最後の名主は、大嶌源蔵であったとされている。

 次に大嶋家兄弟の系統について記すと、先ず兄の大嶋大炊介二系統は、北本市宮内においては、家号「本家」または「與四郎」さんの家とも呼ぶ。大島隆三氏宅と家号「新宅」とよばれている私の父親大島世高(ときたか)の実家大島政之宅がそれであるとされている(中世文書所持)。また弟大嶋大膳亮系統は宮内では、家号「東の家」と呼ばれている大島康男宅とされている(中世文書所持)。

 私が、この調査に本格的に乗り出し、墓石の戒名や歴代当主を一人一人年代順に並べ調べたところ、宮内村に土着(1504~27)して以来、505年が経過で現在当主は24代目であった。さらにさかのぼり伊豆大島での鎮西八郎為朝が1170年に没してからでは、840年も経ているため、1代を21年として計算した場合、おそらく40代目ぐらいになる。

 私自身、今日までよく歴代の人が古文書等を保存し口伝を代々伝えてきたものと感謝し、頭の下がる思いである。戒名は歴代本家、東の家、新宅系統とも先祖代々より永代院号居士(菩提寺北本市・深井殿林山寿命院〈新義真言宗〉)となっていた。

馬の鐙
大嶋一族が馬に乗っ
て宮内村に土着した
時、着用した馬の鐙
北本市有形文化財指定
(大島康男氏所蔵)
 次に近世(江戸期~明治の初期)の宮内村について記す事とする。足立郡鴻巣領のうちはじめ幕府領、正保年間から元禄年間にかけて村内を上・下に分けた。元禄11年、上村は一部旗本内藤氏の知行となり、宝永元年、上村の幕府領は旗本数原氏の知行となった。享保6年、下村は旗本小林氏の知行となった。「元禄郷帳」には上・下分村併せて記載してあり、上村宮内村205石余、下村宮内村197石余、計402石余となっている。「天保郷帳」も変わっていない。村の規模は東西、南北ともに11町余りで、用水は荒川の水を鴻巣宿(現鴻巣市)の宮地堰より引いて使用したとなっている。

 高札場は三カ所あり、化政期の家数は上村が30軒あり、下村は27軒であった。神社は氷川社ほか二社あり、寺院は新義真言宗歓喜山常福寺であった。氷川社の別当は当山派修験大乗院となっている。村の西に13塚があったとされ、名主は内藤家の知行分が大島氏で中世文書を所持とされている。

 次に私事で恐縮ではあるが、私の父親大島世高(ときたか)の実家は家号「新宅」の家と呼ばれている。新宅と呼ばれたのは、大嶌源蔵名主が孫にあたる周吾を分家に出す時からであるから、天保年間頃、呼ばれた家の呼び名である。新宅は、その源蔵様より直接出て来ており、大嶌とシマの字を土佐守と同様山ヘンを上につけて書いたとうい事である。墓石等を調べているうちに分かってきた事は、同じシマでも土佐守の頃は大嶌と書き、大炊介以後江戸末期までは大嶋と書き、明治以後は大島と現在の島が用いられて来ていることであった。

 これはおそらく土佐守は、古い時代の人であり、伊豆を領していた当時の格の高い人物であった故、嶌を用いたのではないかと考えられる。大炊介以後は、嶋を用いたが、江戸末期の大嶋家最後の名主源蔵様のみ土佐守同様嶌を用いた。この方は相当力のあった方と聞いている。なんでも大宮の氷川神社(武蔵一の宮)寄贈を沢山行っており、お墨付きが相当あったということだった。これらは、全て墓石、舊遺碑、古文書、および口伝等より確認している。現在は、すべて本家も新宅も東の家も同様に当用漢字の島を使用している。また世間には、明治以降になっても旧字をそのまま使用している家もある。私は現在熊谷市に住しているが、末裔にあたる。私の父世高(ときたか)の父親は、大島政之助と言い、政之助の子供は三男二女あり、長女は千代、長男は私の父世高(ときたか)で、次男は敬治(3歳8ヶ月で死亡)三男は平三郎、次女は志げといった。私の名前敬治は父世高(ときたか)が早世した弟敬治の名を再度名付けたとの事である。祖父の政之助は、私の父世高(ときたか)が16歳の時死亡し、その後宮内大島家は、長男の世高(ときたか)が家督相続した。その間三男平三郎は前橋の叔父の所へ婿養子として入り、長女千代は、鴻巣市原馬室の金子家に嫁いだ。

 しばらくの間、宮内新宅大島家は私の父世高(ときたか)が、母あいと次女の志げを見ながら相続を行っていたが、日支事変が勃発した翌年の昭和13年12月、私の父世高(ときたか)の人生は大きく変わるのである。国土発展のため、大望を志し今まで相続していた実家を妹志げに頼み、満州国開拓移民として満州国浜江省蓴河県蓴河周家営埼玉村開拓団に入植してしまうのである。

 日支事変は、ますます激しくなり、大東亜戦争となってしまい、昭和20年7月18日、父世高(ときたか)は満州国にて応召の命を受ける結果となり、現地にて出征し、昭和20年8月15日には、満州国チチハルにて終戦となった。その後シベリアに約2年間抑留されたが、帰国の命によりナホトカ港より引揚げて昭和22年6月13日、舞鶴港に上陸した。

 本籍埼玉県北足立郡北本宿大字宮内994の5番地に帰省したが、当時日本国は敗戦後で食糧もなく混乱の時であり、その間既に妹は婿養子を取り、大島家を相続していたため、やむなく再度開拓を志して昭和22年7月、先遣団員として、本畠村本田に入植、昭和23年2月27日、埼玉県より本畠開拓入植の正式許可があり、開墾を開始した。その後、本畠村は小原村境界地区により昭和24年11月、小原村大字板井となった。 なおその後は小原村、御正村の合併により大里郡江南村大字板井となった。(その後江南町を経て市町村合併によって熊谷市となった。)

 昭和23年1月27日、世高(ときたか)は秩父郡両神村大字薄より加藤鏡平長女富恵を妻に迎え、男子3人の子の父親となった。(昭和47年3月没)

 以上のようなわけで、現在、私は熊谷市に住しているが、私が長男であったためと父世高(ときたか)が老齢での再出発であったためか、よくよく北本宮内大島家のことが話題にのぼり、私も3人の子の父親となった今、父の気持ちがよく分かり祖先への何よりの供養と考え、事実を調査し、書き記した訳である。

 祖先が子孫繁栄を願い、氏をどれほどまでに大切にして来たかが窺われる。今日ある私を含めた末裔も、代々受け継がれた祖先の願いを汲み取り、為朝が配流となったあの伊豆大島の地名が、子孫が代々大島を氏とし、840年経た今でも氏として名乗っている事に深く感謝し、これからも代々子孫に語り伝えていくと共に、祖先があって今日の自分があるため、祖先を大切にする心と常に供養を忘れない気持ちでありたいとする心を願わざるにはいられない。

 「歴史と旅」平成元年10月号から抜粋

  


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